
2026年8月、ポルシェはABB FIA フォーミュラE世界選手権の最終戦ロンドンE-Prixに向け、Porsche 99X Electricに特別なカラーリングを施した。
白い車体を濃紺が大胆に切り分け、その境界を赤と金の細いラインが走る。

ポルシェ・モータースポーツ75周年を記念し、1980年代に成功を収めたPorsche 956、962C、そして959をモチーフにしたという。
ポルシェ公式はあくまで「ヒストリック・リバリー」と呼ぶが、その3台の名前を聞けば、このカラーリングが何を意味するのかは明らかだろう。

ロスマンズ(ROTHMANS)
かつて世界有数のタバコ企業だったRothmans Internationalが、ポルシェのワークス活動を支援していた時代のカラーリングである。
そして興味深いことに、今回この色をまとう99X Electricもまた、ひとつの時代を代表するマシンとなった。
ポルシェは既にマニュファクチャラーズ・チャンピオンを確定。ロンドンを前に、99X Electricはすでに5つのワールドチャンピオンを獲得しており、ポルシェ自身が「GEN3時代で最も成功したマシン」「ポルシェ史上最も成功したシングルシーター」と表現している。
そして8月15日、16日のロンドンE-Prixを最後に、その役目を終える。
なぜその最後に、この色なのか。
ポルシェには75年に及ぶモータースポーツの歴史がある。赤いPorsche 917/20 “Pink Pig”もあれば、ガルフの水色とオレンジある。
それでも99X Electricの最後に選ばれたのは、956、962C、959と受け継がれた色だった。
その理由を知るには、単に「ロスマンズとポルシェの歴史」だけを振り返っていては足りない。
なぜなら、ロスマンズはポルシェだけのスポンサーではなかったからだ。
カテゴリーもメーカーも異なる数々の挑戦において、ロスマンズは世界最高峰の舞台に現れ続けた。そして気がつけば、青、白、赤、金というその色は、タバコの広告という本来の意味を超えていた。
なぜロスマンズのカラーリングは、今日まで特別な意味を持ち続けているのか。
その答えを探して、55年前へ遡ってみる。
ロスマンズが最初に買ったものは、広告枠ではなかった
ロスマンズのモータースポーツ活動は、ポルシェから始まったわけではない。
1971年には欧州Formula 5000シリーズのタイトルスポンサーとなり、「Rothmans F5000 Championship」の名を掲げた。
翌1972年にはブランズハッチで、当時としては巨額の賞金を用意した「Rothmans 50,000」を開催。1970年代後半にはオーストラリアでも「Rothmans International Series」が行われている。

注目したいのは、彼らが単にレーシングカーの横にロゴを貼っていたわけではないことだ。
大会そのものに名前をつける。レースを作る。観客を集める。そして、その出来事をニュースにして世界へ届ける。後にロスマンズがモータースポーツで繰り返すことになる発想は、すでにこの頃から見え始めていた。
勝つだけでは足りない。その勝利が、人々の目に届かなければ意味がない。
やがて、その思想を実際のレーシングチームへと持ち込む人物が現れる。
デビッド・リチャーズという人物だ。
“勝てる環境”を作った男、デビッド・リチャーズ

1970年代半ば、まだ20代のデビッド・リチャーズは、中東のラリー運営を通じてロスマンズと関係を築いていた。
1976年の第1回クウェート・ラリーでは、大会直前になって運営を任され、限られた準備期間の中でイベントを成立させた。その成功をきっかけに、ロスマンズはカタール、バーレーン、UAE、オマーンといった地域でもモータースポーツ活動を広げていく。
一方のリチャーズは、イベントを作るだけの人間でもなかった。自らラリーカーの助手席に座る、一流のコ・ドライバーでもあった。
そして1978年の末。彼はひとりのドライバーに大きな可能性を見ていた。フィンランドの若手、アリ・バタネンである。速さはある、しかしクラッシュも多い。フォードのワークスドライバーとして大きな期待を集めながら、その才能を結果へ変えきれずにいた。
そんな状況で動いたのが、デビッド・リチャーズだった。彼はバタネンの才能とフォードの能力を信じ、その可能性を最大限に発揮できる環境作りに動いた。
その鍵こそが本エントリーの主題、ロスマンズである。
リチャーズはロスマンズとの関係を活かし、スポンサーシップによってフォードのラリープログラムを支える体制を構築。自身もバタネンのコ・ドライバーとしてラリーに挑み、彼を支えた。
これが「ロスマンズ・ラリー・チーム」誕生の経緯である。

フォード撤退。それでもロスマンズは残った
しかし、1979年末。フォードは世界ラリー選手権におけるワークス活動からの撤退を決断した。メーカーが去れば、普通はプログラムも終わる。マシンも、資金も、人員も失われる。それでも、ロスマンズは残った。
フォード撤退後、「ロスマンズ・ラリー・チーム」の活動は、地元イギリスの「デビッド・サットン・モータースポーツ」へと引き継がれる。
そして1981年。
アリ・バタネンとデビッド・リチャーズは、フォード・エスコート RS1800で世界ラリー選手権のドライバーズ・チャンピオンに輝いた。
ロスマンズにとっても、これが最初のワールドチャンピオンであった。ここには、後のロスマンズのモータースポーツ活動につながる重要な特徴が現れている。
フォードのワークスチームが去っても、チームにはバタネンとリチャーズ、そして世界を狙えるマシンが残っていた。ロスマンズはそこに可能性を見出し、支援を続けた。
そして、本当に世界を獲った。

勝てない場所に、居続けない
実はロスマンズは、ずっと前にF1に挑戦している。
1977年、南アフリカのイアン・シェクターがロスマンズの支援を受け、マーチのワークスチームからF1に参戦している。しかし、マーチはすでに競争力を失いつつあった。シェクターは年間ノーポイントに終わり、マーチもシーズン終了後にワークスF1活動から撤退した。
そして5年後の1982年。ラリーを制したロスマンズは、再びF1へ向かう。
RAMが運営するマーチ 821にロスマンズの名が入り、ヨッヘン・マス、ラウル・ボーセルらがドライブした。

しかし、計画はうまくいかなかった。とにかくマシンに競争力がない。勝利はおろか、上位争いすら難しい。リチャーズも外部アドバイザーとしてこの計画を見守っていたが、F1に固執するよりも別の方向へ進むべきだと考えるようになっていった。
そして、ここでロスマンズ史にもう一人のキーマンが登場する。
ヨッヘン・マス
マーチのドライバーである彼こそ、ロスマンズとポルシェを直接つないだ人物だった。
「君たちは世界チャンピオンなんだ。勝てる場所へ行くべきだ」
当時ロスマンズでマーケティングとスポンサーシップを担当していたリチャード・ワトリングによれば、1982年の上旬、マーチF1チームの発表会を行っていた頃、マスはロスマンズ側にかなり率直な警告をしたという。「相手はウイリアムズやフェラーリだ。簡単に勝てる世界ではない。」そして彼はこう訴えた。
「あなたたちは世界チャンピオンなのだから、勝てる見込みがないなら別の場所へ行くべきだ」
そこでワトリングは聞いた「では、どこへ行けばいい?」マスの答えはグループCだった。そして彼はこう付け加えた。
「ポルシェが新しいレーシングカーを作っている。世界をリードする存在になるはずだ。」
そのマシンこそ、Porsche 956だった。
後から振り返れば、出来すぎた話に見える。しかし、この時点でPorsche 956が成功する保証などどこにもない。そしてマーチF1という明確な失敗もあった。重要なのは「勝てない場所に居続けず、勝てる場所を見極めた」ことだ。
F1というカテゴリーの格に固執するのではなく、勝利にこだわる。ブランドと「成功」を結びつけることを何より重視する。
その思想が、ここでポルシェとロスマンズを引き合わせた。

956が証明した、選択の正しさ
迎えた1982年6月。第50回ル・マン24時間レース。
ポルシェは、まだ実戦経験のほとんどない956を3台投入した。

1号車はジャッキー・イクス/デレック・ベル
2号車はヨッヘン・マス/ヴァーン・シュパン
3号車はハーレイ・ヘイウッド/アル・ホルバート
グラウンドエフェクトを本格的に取り入れた空力、アルミニウム製モノコック、新しいグループC規定を見据えて作られた燃費性能。前年まで走っていた936とは別世界のレーシングカーだった。
だが24時間レースでは、速いだけでは勝てない。そして新車の最初期には、何が起こるか分からない。
それでも956は勝った。それも、ただ勝ったのではない。1位、2位、3位。表彰台をすべて、ロスマンズ・ポルシェが占領した。956にとって、まだわずか2度目の実戦だった。これ以上鮮烈な広告があっただろうか。
翌1983年もロスマンズ・ポルシェはル・マンを連覇。1984年はポルシェのワークスチームが規則変更への抗議からル・マンを欠場したが、ヨースト・レーシングの956が勝利。1985年も同じくヨーストの956が、復帰したワークス962Cを破って連覇を果たした。
そして1986年と1987年、今度はワークスのロスマンズ・ポルシェ 962Cがル・マンの頂点を奪還する。
今回の99X Electricのリバリーについても、ポルシェは「ロスマンズ・ポルシェ」として戦った1982、1983、1986、1987年の4勝を、カラーリングのルーツとして挙げている。
ドライバーのハーレイ・ヘイウッドは後年、ロスマンズ・ポルシェについて、自著で「おそらくモータースポーツ史上最高のレーシングチームだった」と評している。少なくともこの時代の耐久レースに限れば、それが大げさだと断ずる理由はないだろう。
ル・マンでその名声を確固たる地位に押し上げたロスマンズとポルシェは、次の頂点へ向かう。

956から959へ。勝利の舞台は砂漠へ
発端を作ったのは、ジャッキー・イクスだった。
ポルシェは当時、ロードカーにも将来的に応用できる四輪駆動技術を研究していた。その技術の実験場としてイクスが提案したのが、パリ・ダカール・ラリーである。

数千kmに及ぶ砂漠、岩場、悪路。マシンの耐久性だけでなく、新しい四輪駆動システムそのものを極限まで試すには、これ以上ない舞台だ。
この壮大な計画は、ポルシェのワークスチームにとって初めてのパリ・ダカール挑戦だったが、ロスマンズは大々的な支援を決断した。
三菱、メルセデス・ベンツ、ランドローバー等の強力なライバルがいたにも関わらずだ。

1984年元旦。パリを出発した2台の911には、もちろんあの青と白が塗られている。
20日間、約1万2000km。フランスからアルジェリア、ニジェール、ブルキナファソ、コートジボワール、ギニア、シエラレオネと、アフリカを大回りに駆け抜ける。激戦の末に、ゴールのラック・ローズ(セネガル)に最初にたどり着いたのは、そのロスマンズカラーの911だった。
ロスマンズ・ポルシェは、初挑戦のパリダカを、初めて実戦投入した四輪駆動システムで制した。
さらに、ロスマンズはダカールでも映像制作に莫大な労力を注いだ。撮影スタッフを小型飛行機で砂漠へ運び、マシンが通過する場所で待たせる。カメラマンが食料を持って砂漠で何日も待機したものの、肝心の競技車両が別ルートを通ってしまい、さらに砂嵐で救出が遅れたという、現在なら冗談のようにも聞こえる逸話さえ残っている。
なぜそこまでするのか。
勝って、その姿を世界に見せなければならない。
ロスマンズはそれを理解していた。
翌1985年、ポルシェはさらに野心的なマシン、「Porsche 959」を持ち込んだ。ただし、この時点では肝心のツインターボエンジンが完成しておらず、3台は全車リタイア。
それでも翌1986年、ついに400馬力のツインターボと高度な四輪駆動システムを完成させた959で戻ってくる。
今度は勝った。1984年に勝ったレネ・メッジ/ドミニク・ルモアーヌ組が、二度目の総合優勝を達成。ジャッキー・イクス/クロード・ブラッスール組は2位に入り、ポルシェの完璧な勝利に華を添えた。

もうひとつのロスマンズ・ポルシェ
ポルシェとロスマンズのラリー史には、ダカールとは別の重要な物語がある。
舞台は中東。主役はカタールのスター、サイード・アル=ハジリ。
デビッド・リチャーズは70年代から中東でラリーイベントの運営に関わる中でアル=ハジリと出会い、その才能を評価していた。1982年にはアル=ハジリがロスマンズ・ラリー・チームに加わり、オペル・アスコナ400で中東のラリーを争っている。
そして1984年。リチャーズがプロドライブを創設すると、その初期プロジェクトとしてロスマンズ・ポルシェ・ラリーチームが誕生する。
マシンはPorsche 911SC RS。舞台は同年に始まったばかりのFIA ミドルイースト・ラリーチャンピオンシップ(MERC)。

初戦のカタール・インターナショナル・ラリーで、サイード・アル=ハジリ/ジョン・スピラー組の駆るロスマンズカラーのPorsche 911 SC RSはいきなり優勝。
勢いそのままに、オマーンとドバイのラウンドを制し、MERCの初代チャンピオンに輝いた。
ちなみにこの時のランキング2位は、現在FIAの会長を務めるモハメド・ビン・スライエムである。
翌1985年もタイトルを連覇。中東でもロスマンズカラーのポルシェがラリー界を席巻したのである。
ロスマンズが追ったのは、メーカーではなく勝利
ロスマンズの色がここまで特別な意味を持つ理由を理解するには、ポルシェだけを見ていては足りない。
Porsche 956が最初にル・マンを制した1982年まで時を戻す。
世界ラリー選手権では、オペルというドイツの自動車メーカーがロスマンズのリバリーを纏っていた。

しかし、この挑戦は決して「ドイツ最大級の自動車メーカーを支援する」という単純なものではない。
ロスマンズが見ていたのは、メーカーの規模ではなく、勝利を現実にできるチームと人間が存在するかどうかだった。
1982年、FIA世界ラリー選手権は大きな転換期を迎えていた。アウディは革新的な4輪駆動システムでラリー界の常識を変えようとしていた。一方、オペルが投入したのは、後輪駆動のOpel Ascona 400。技術的にはアウディのような革命的な存在ではなかった。
しかし、オペルにはヴァルター・ロールという世界最高のドライバーがいた。
ロスマンズ・オペル・チームは、実質的にロールを中心とした戦いだった。ロールはAscona 400を完璧に操り、雪、グラベル、ターマックというあらゆる路面でアウディの猛追を受け止めた。
1982年シーズン、ロールは2勝を挙げ、安定してポイントを積み重ねることで、アウディのミシェル・ムートン、ハンヌ・ミッコラらの猛追を退け、ドライバーズ・チャンピオンを獲得した。
オペルにとって初のワールドチャンピオン。しかしロスマンズにとっては、チームを変えての連覇である。
1981年にフォードでラリーを制したロスマンズが、1982年はル・マンをポルシェで、ラリーをオペルで制した。
メーカーに忠誠を誓うスポンサーではない。カテゴリーにも執着しない。ロスマンズが追っていたのはメーカーではなく、勝利そのものだった。

失敗から12年。今度は勝てるF1へ
1982年、ロスマンズはマーチとF1に挑み、失敗した。ヨッヘン・マスから「勝てる場所へ行くべきだ」と言われ、耐久レースへ移った。
それから12年が経った1994年、ロスマンズはF1へ戻る。パートナーに選んだのは「ウィリアムズ・ルノー」
1992年、1993年と2年連続でドライバーズ/コンストラクターズのダブルタイトルを獲得した、当時のF1を代表する最強チーム。
「ロスマンズ・ウィリアムズ・ルノー」として戦う最初の年、サンマリノGPでアイルトン・セナを失うという悲劇に直面しながらも、コンストラクターズ・チャンピオンを獲得。
1996年にはデイモン・ヒルとともにダブルタイトル。1997年もジャック・ヴィルヌーヴとともにダブルタイトルを連覇した。
12年前との違いは明確だ。F1に行きたいからチームを選ぶのではない。
F1で勝てるチームを選ぶ。
それは、ヨッヘン・マスが1982年に語った思想そのものだった。そしてロスマンズは、今度こそ世界の頂点に立つチームを選んだ。

なぜ99X Electricは、この色をまとうのか
そして2026年。
ロンドンE-PrixでPorsche 99X Electricがまとうのは、単なる懐古的なカラーリングではない。
この青と白、そして赤と金のラインが意味するものは、過去の勝利へのノスタルジーではないし、もちろんタバコの広告でもない。
ここまで見てきたように、この色はフォード、オペル、ポルシェ、ウイリアムズと、異なるカテゴリーを渡り歩きながら、何度も世界の頂点に立ってきた。
その歴史を知ったうえで、もう一度99X Electricを見ると、ひとつの疑問が浮かぶ。
『なぜポルシェは、この色を99X Electricに与えたのか。』

興味深いのは、この色を受け継いだのが、956と同じル・マンを戦うPorsche 963ではないということだ。Formula Eの99X Electricである。
カテゴリーが同じだからではない。駆動方式が同じだからでもない。
956や959がそうだったように、その時代において、カテゴリーを代表する成功作となったからだ。
つまりポルシェ自身が、99X Electricを956や959と同じ場所に置いたのである。
もちろん、かつてロスマンズの色をまとったすべてのマシンが成功したわけではない。マーチとのF1挑戦のように、明確な失敗もあった。
それでもロスマンズは、世界を獲る可能性を持つチームとマシンを探し続けた。そしてフォード、オペル、ポルシェ、ウイリアムズと、その色は何度も世界の頂点に立った。
勝利を目指して選ばれ、そして勝利によって記憶された、“勝者の色”になった。
2026年、その色を99X Electricに与えたのは、ロスマンズではない。ポルシェ自身だ。
それはおそらく、99X Electricというレーシングカーに対してポルシェが与えることのできる、最大級の賛辞なのだろう。
(文=河合優利)







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